コラム
Column
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「百丈野狐」は、『無門関』の中の公案(注1)の一つです。昔、いつも群衆に混じって百丈和尚(注2)の説法を聞いていた老人が、ある日一人残っていました。百丈和尚が老人に「お前は何者か」と問うと、老人は、「私は人間ではありません。私は、ある修行者が『修行を重ねて悟った人は因果に落ちるのでしょうか』と問うたのに『不落因果(因果には落ちない)』と応え、500回野狐に転生しました。正しい見解を頂いて野狐の身から抜けさせてください。」と懇願し、「修行を重ねて悟った人は因果に落ちるのでしょうか」と問いました。百丈和尚が「不眛因果(因果を眛(くらま)さない)」と応えると、老人は、大悟し、百丈和尚に「私は野狐の身を脱して裏山にいます。僧侶として弔ってください」と言いました。百丈和尚は、裏山で死んでいた狐を火葬しました(注3)。
法律の世界でも「因果」から目を背けることはできません。民刑事を問わず、自由な意思に基づく行為と因果関係のある結果に法的な責任を負うというのが、法の世界の基本となる伝統的考え方だからです(注4)。ところが、この「因果関係」というのはなかなかの曲者です。一般に法律上の因果関係は、まず「事実的因果関係」(「条件関係」ともいいます。)があることを前提として、「相当因果関係」の範囲で責任を負うと言われます。「事実的因果関係」とは、「あれなければこれなし(condiciō sine quā nōn)」の関係であるとよく言われています。ところが、このように考えると、例えば、甲がXの井戸に致死量の毒物を投げ込み、ついで乙も同様にした後、Xがこの井戸水を飲んで死亡したという事例の場合、甲の行為も乙の行為も甲の死亡と因果関係がないことになってしまいます。一般にはこの結論は不都合であると考えられており、やはり因果関係があると言われます。確かに、「あれなければこれなし」と「あれあればこれあり」とは互いに裏命題にすぎませんから、「あれなければこれなし」が真であっても、「あれあればこれあり」が真であるとは限りません。しかし結局、「あれなければこれなし」以外に因果関係の公式というべきものは提示されないので、責任を負わせるべきところでは相当因果関係があるというような循環論法を認めざるをえなくなってしまいます。「相当因果関係」とは、民事法と刑事法とで微妙にニュアンスの違いがあるもののその結果が「通常」生じるかどうかが問われています。この「通常」性ということについて、一般人や行為者が知っていたのか、又は知り得たのかといったことが判断基準となるといういわば通説の考え方は、私には客観的な事実である因果関係と責任の及ぶ範囲の問題とがごっちゃになっているように感じます(注5)。
自由な意思が因果関係と両立するのかは古来の難問です。この世の中のあらゆる事象が固い因果関係で結ばれているならば、自由な意思などありえないということです。カント(注6)は、因果関係と自由意思の問題について、二律背反(アンチノミー)であって理性では解決できないが、(何か良く分からない議論で)どちらも成り立つと言っています。自由な意思に基づく行為と因果関係のある結果に対し責任を負うという考え方は、このような19世紀までの古典的力学やユークリッド幾何学を前提としたカントの時代の世界観からあまり進歩をしていません。20世紀に入って進歩した量子力学の世界では、厳密な因果関係が認められなくなっています(注7)。因果関係は私たちの錯覚なのかもしれません。また、意思決定についても1980年代に興味深い実験がなされています。その実験は、被験者が任意の時に手を動かし、その際の脳の活動を観測するというものですが、被験者が意識的に動作しようとする前に脳が活動を開始していることが分かりました。これは、意思決定がまず潜在意識でなされており、脳は人に対し、意識的に決定をしたと思わせているに過ぎないことを示唆しています(注8)。自由な意思も私たちの錯覚なのかもしれません。
法律問題は、日々多数発生します。私たちは、当面の間、目の前の法律問題を解決していかなければなりませんから、伝統的な考え方を前提として法的な判断を進めざるをえません。これによる以外には現代人の多くを説得できる代替的な考え方がないからです。だから私は、今後もしたり顔で「因果関係」云々と言い続けることになります。とりあえず、現代人の多くが、そのような説明で納得できるならば、それで良しとせざるを得ないからです。所詮法理論は説得のための理屈ですから。しかし、現代人が盟神探湯の理屈では説得されないように、最新の自然科学の成果を見据えた新しい法的な枠組みを再構成せざるをえない時代が来るのかもしれません(注9)。
(注1)公案とは、禅宗の修行者が悟りを開くために師が課題として与える問題です。無門関は、南宋の臨済宗の禅僧である無門慧開(むもん えかい)の編集した公案集です。
(注2)百丈懐海(ひゃくじょう えかい)は、唐代の禅僧であり、臨済宗の開祖臨済義玄(りんざい ぎげん)の師である黄檗希運(おうばく けうん)の師にあたります。
(注3)「なるほど修行を重ねて悟った人でも因果に落ちないなんて不遜なことを口にすると狐になるんだ」なんて納得するような人は、(多分)狐にもなれないでしょう。
(注4)自由意思が責任の淵源となるという考え方は、普遍的なものではなく、特定の時代の特定の地域における支配的考え方に過ぎません。例えば、刑法における近代派(新派)の考え方のようにちょっと違った考え方もありますが、このような考え方は現在必ずしも有力ではありません。
(注5)民法では、民法415条1項の「債務の不履行に対する損害賠償の請求は、これによって通常生ずべき損害の賠償をさせることをその目的とする」という規定及び同条2項の「特別の事情によって生じた損害であっても、当事者がその事情を予見し、又は予見することができたときは、債権者は、その賠償を請求することができる」という規定が相当因果関係を表しているというのが伝統的な考え方です。なお、単純に損害賠償の範囲について民法415条を解釈・適用すればよくて、相当因果関係という中間概念は必要はないという学説が有力です。現在検討されている債権法の改正では、通常生ずべき損害は2項に包摂されるので不要ではないかと言った議論もされています。
刑法の分野では、相当因果関係の判断基礎として、①主観説(行為者が行為時認識・予見していた事情及び認識・予見しえた事情)②客観説(行為時客観的に存在したすべての事情及び行為後に生じた客観的に予見可能であった事情)③折衷説(一般人が認識・予見することのできた事情及び行為者が認識・予見していた事情(及び認識予見しえた事情))といった学説があり、折衷説が一応有力説ということになっています。裁判所は、相当因果関係説は採らない、あるいは事実的因果関係を限定するとしても、別の考慮が働いているように感じます。
(注6)後の西洋哲学に大きな影響を与えたプロイセン王国出身の著名な(名前は大抵誰でも知っている)哲学者イマヌエル・カントです。はっきり言って私にはこの人の書いていることは殆ど理解できませんが、理性の限界といった目の付け所には甚く感心します。
(注7)物理学者のロジャー・ペンローズは、量子力学が発展すれば、自由な意思の存在が証明できるだろうということを言っています。あくまで彼の希望ですが。
(注8)ベンジャミン・リベット『マインド・タイム 脳と意識の時間』(2005年、岩波書店)参照。勿論この実験結果が直ちに自由意思などないということに結びつくわけではありません。
(注9)私は別に法理論というものが全く停滞したままだと主張する訳ではありません。ただし、伝統的な学説というものは、(当時の学問の水準に引きずられながらも、)果敢に体系化を試みようとしていたのに、最近の学説は妥当な結論のためのアド・ホックな理由付けが多くなっていると感じます。
(どうでもよい後書き)
私は、当初このコラムの題名を「恋するフォーチュンクッキー」にするつもりでした。私の頭の中では、「フォーチュンクッキー」といえば「辻占煎餅」、「辻占煎餅」といえば「伏見稲荷神社」、「伏見稲荷神社」といえば「狐」ということで、「百丈野狐」に繋がる筈でした。しかし、テレビで「恋するフォーチュンクッキー」が流れている時、妻に「フォーチュンクッキーと言えば伏見稲荷だよね」と言うと、「何言ってるの、フォーチュンクッキーと言えば、中華街だよ」と言い返されてしまいました。フォーチュンクッキーは、もともと日本(伏見稲荷という説もありますが、金沢という説もあります。)にあった「辻占煎餅」がアメリカに渡り、中華街経由でとして日本に逆輸入されたものですが、確かに、中華街を連想する人が多そうですし、そもそも上述の長い連想を書き連ねることは当法律コラムには適当でもないので、私は当初の目論見を断念しました。残念。しかし、このようなことを後書きとして書き込まずにはおられない妄執盛んな私の涅槃はまだ先のことかも知れません。私も狐になって「大切なことは眼では見えないんだよ」とでも言ってみたいものです。