コラム

Column

第13回 龍涎香(りゅうぜんこう)と知的財産権

先日、イングランド北西部の海岸で、犬を散歩中の男性が変な匂いのする石を見つけたところ、それが龍涎香(りゅうぜんこう)という大変貴重な香料である可能性が高いことがわかったというニュースが報道されていました。まだ本当に龍涎香かどうか判明していないにもかかわらず、フランスのディーラーからは630万円という価格が提示されているそうです。

 

そんな高価な龍涎香ですが、今回のニュースで初めて知ったという方もおられるのではないでしょうか。

別名をアンバーグリスといい、その正体はマッコウクジラの腸の中にできる結石だそうです。機序は正確にはわかっていないようですが、マッコウクジラの主食であるタコやイカの固い部分が消化されずに残り、分泌液で固められてできるものと考えられています[1]。NHKが世界で初めて深海での撮影に成功し、今年初めにその撮影ドキュメンタリーを放送して話題になったダイオウイカは、マッコウクジラの餌ですので、龍涎香にはあの超巨大イカの組織も含まれているということになります。

 

では、肝心の香りがどんな香りかといえば、残念ながら私自身はそんな高価な香りは嗅いだことがありません。マッコウクジラは漢字では抹香鯨と書きますが、これは、龍涎香が抹香の匂いに似ているところに由来すると言われていますので、抹香の匂いに似ているのかもしれませんし、麝香(ムスク)に似ているという説もありますが、いずれにしても1000年以上の長きにわたって世界で珍重されてきたわけですから(香料として使用されたのは、7世紀ころのアラビアが最初だそうです)、素晴らしい香りに違いありません[2]。シャネルNO.5にも調合されていたと言われています。

 

このように、龍涎香か?という石の発見が世界中でニュースになるように、香りを楽しむ文化は古今東西を問わず生活に根付き、大切にされてきました。そして現在では、香りそのものを楽しむ香水やフレグランスといった製品だけでなく、機能上香りが不可欠ではないものに香りを加え、セールスポイントとする製品(例えば、アロマ携帯や香り付きマスク)が数多く市場に出回っていますし、香りをブランドのイメージに結びつけるブランディング戦略[3]をとる会社も増えており、香りはマーケティングにおいても重要な要素となっています。

 

しかし、龍涎香がどんな香りか?という説明でもおわかりのとおり、香りを正確に表現することは難しく、そのために法的な保護の対象とはされにくいのが現状です。

例えば、日本では、商標は一定の形状を備え、視覚で認識できるものとされていますので(商標法2条)、香りは該当しません。また、EUでは、写実的に表現可能な標識であって、自他商品役務の識別ができるものであれば商標として保護が可能とされていますが(欧州指令2条)、香りに関する商標登録を巡る欧州司法裁判所の判決(Sieckmann判決)では写実的表現の要件を満たさないとされ、以降、香りに関する商標の保護は否定されてきました。

 

ところが、このような傾向が近年、変化を見せつつあります。

もともとアメリカでは香りの商標登録が認められており、登録例がありますが、韓国においても、におい等の視覚で認識できない商標を保護対象とするよう商標法が改正され、2012年に施行されました。また、近年二国間で締結される自由貿易協定(FTA)等においても、香りを含め、視覚的に認識できない商標も保護対象として考慮されるべきとする条項が盛り込まれることがあるようです。

 

そして、日本においても、商品やサービス等の多様化に伴い、文字や図形などからなる伝統的な商標以外の「動き」「輪郭のない色彩」「音」などからなる非伝統的な商標の利用が増えていることや上記のような海外の動きなどを受け、商標法改正が検討されています。

特許庁は昨年12月に「産業構造審議会知的財産政策部会 商法制度小委員会報告書 『商標制度の在り方について』(案)」を公表し、今年1月16日までパブリックコメントに付しました。この報告書では、「動き」「ホログラム」「輪郭のない色彩」「位置」「音」を新たに商標法の保護対象とすべきであるとしています(ただし、報告書は、においについては、「適切な制度運用が定まった段階で保護対象に追加できるよう、検討を進めていくことが適当」としています)。

 

昨年6月の段階では、特許庁は、音、触感や香りを商標の保護の対象とする方針を固め、改正法案を通常国会に提出すると報道されていましたので、香りに関しては少し後退した感はありますが、いずれにしましても、知的財産権の保護に向けた今後の法改正の動きが注目されます。

 

ところで、件の龍涎香は、散歩中の犬が見つけたそうです。我が家の犬も何か見つけてくれたらよいのですが・・・。

 

 

[1] 以前はマッコウクジラが捕獲されたときに入手できましたが、現在は商業捕鯨が禁止されているため、自然に排泄され海岸に流れ着いたものを探し出すしか入手方法がないこともあり、高額で取引されています。

[2] 龍涎香は、海面を漂う間に日光と酸素に晒され酸化すると考えられており、十分に酸化されていない段階では悪臭に近い臭いのようです。今回発見された石も独特の臭いだったようで、発見者も発見した時は持ち帰らなかったそうです。

[3] 五感の中でも、嗅覚は記憶や情動と密接に結びついており、人は、特定の香りを嗅ぐとその香りに関する過去の出来事を思い出すと言われています。雨の匂い、夏の匂い、花の匂い、古い家の匂いなど、ある匂いによって心の奥底に眠っていた過去の出来事や物を思い出したという経験は誰でもお持ちではないでしょうか。そこで、企業や店舗のイメージに合う香りを社内や店内に漂わせ、その香りと企業等を関連づけて印象を残す、他の場所で似た香りを嗅いだときに企業等を思い出させるという戦略がとられています。

 

【参考文献】

商標制度の新しい潮流(青林書院)、産業構造審議会知的財産政策部会 商標制度小委員会報告書