コラム

Column

第123回 自己責任をめぐる論争

昨年は、シリアで拘束されたジャーナリストについて“自己責任”を巡り様々論じられました。当人を批判する人たちは、『自業自得の付けは自分で払え、それが自己責任だ』とし、同情派は、『自己責任との批判は国の責任逃れであり、無責任を正当化する言い訳だ』とし、いずれも「自己責任」を何か冷たい態度を意味する倫理的、情緒的な文脈で理解しているようでした。それを聞きながら昭和63年の証券取引法(現金商法)ディスクロージャー制度大改正に当たり、担当者として審議会答申案の作成から改正法成立や関連政省令整備までフルに携わっていた時のことが思い起こされました。
この制度は戦後占領下で制定された証券取引法により我が国に導入されたものですが、当時は大蔵省と市場関係者の申合せによる様々な発行制限規制があり、『投資家保護はそれで尽くされている。ディスクロージャー制度は屋上屋を架すもので不必要に手続的・経費的負担を強いている』との意識が強く、そのため昭和23年の導入後40年を経過した当時でも制度の理解者は少なく、発行体も含め市場関係者の評判も良くありませんでした。
こうした逆風の中で、市場の公正性確保と発展のために将来まで持続されるべきは事前規制の強化ではなく投資家自身の責任による判断とそれを可能とする環境作りであり、それこそが真の投資家保護である、との強い信念で臨んだのがこの法改正作業でした。(ちなみにこの時に法第2章の表題を【企業内容等の開示】に変更し、現在に至っています。)
企業サイドは官の基準による選別なく自由に証券を発行し評価を市場(投資家)の選別に委ねる、他方、投資家サイドは多彩な選択肢と適切な情報が市場に供給されるなか自己の判断と責任で投資を決定する。この方向性こそ発行自由化への一本道だとして、企業内容開示制度の強化に反対する市場関係者の説得にあたりました。
この考え方では、投資家の「自己責任」と「選択する権利」は表裏一体の法的な理念となります。外国の自然公園では断崖絶壁に柵がなくてヒヤヒヤしますが、日本はその逆で、あちこちで立入禁止の措置がとられています。確かに日本の方が親切で安全配慮の意識が高いとも言えますが、その本質は、事故発生時の責任の所在にあります。とかく管理者側の責任が問われがちな社会では管理者側のガードが固くなり、その挙句に本来自由でも構わない行動(自然公園で崖っぷちに行く、夏休みに学校施設を使うetc.)そのものが禁止され、また世間もそうした規制、言い換えれば行動の自由に対する束縛を、さほど意識することなく受け入れてしまいます。
筆者の懸念は、社会のなかで相互に保護を求めあう、ある意味で麗しい構造が、いつの間にか個々人の自由を制限し、さらにそうした方向への公権力の介入をも是認してしまうことです。 こうした父権的な介入を排除するための裏付けとなる理念こそ「自己責任」であり、これは倫理的な価値観ではなく権利の裏付けとなる法的な概念として理解されるべきでしょう。
あのジャーナリストも、「自己責任の原則」があるからこそ誰にも束縛されず自分の判断で危険地帯に入れたのです。

以上